Yuki Okumura
日本人アーティスト、奥村雄樹の作品集。2025年3月から5月にかけて、奥村の名前を冠した個展(Yuki Okumura)が「ウィーン分離派会館(セセッション / secession)」で開催されました。本書は同展に際して刊行されたカタログ/アーティストブックです。
会場となった同館地上階の展示室、通称「ハウプトラウム(Hauptraum)」は、史上初のホワイトキューブとされています。一般に、装飾が省かれ、白い塗料で覆われたホワイトキューブは、世界と隔絶されたニュートラルな空間として理念化されます。しかし実際のところ、どんなホワイトキューブも通常の部屋と同様の即物的な建造体であり、世界の開かれた一部に他なりません。そこには独自の文脈と条件が備わっており、人々の行為がそれらを絶えず更新しています。部屋は生きられ、生きている。ハウプトラウムも例外ではありません。むしろ、過去127年に亘って無数の展覧会が開かれ、数度の改修が施され、それが今後も続く、そこには過去の行為の痕跡と未来の行為の萌芽が、どんな部屋よりも豊かに息づいています。
だからこそ奥村は、事前にどこかで作った事物をハウプトラウムに持ち込み、そのホワイトキューブとしてのイデオロギーを安易に利用することを選びませんでした。奥村が試みたのは、空っぽのハウプトラムに手ぶら/身ひとつで乗り込み、その空間に孕まれた無限の行為のポテンシャルを活性化し、その帰結や痕跡を作品として結実させることでした。そのために、ハウプトラウムの歴史的な文脈や物理的な条件を探究する3つのサイト・スペシフィックなプロジェクトを構想し、それぞれのためにゲームのような手順を設計、この展示室と近い関係にある人々に、その工程の遂行を依頼しました。
映像作品『ハウプトラウムとしてのウィルヘルム』(Wilhelm as Hauptraum)には、分離派会館で20年以上に渡って展示設営のチーフを務めたウィルヘルム・モンティベラー(通称ウィリー / Wilhelm “Willi” Montibeller)が登場し、自身がハウプトラウムで携わった印象深い展覧会について、同室の模型を前に回想します。何より雄弁なのは、本作の主役とも言える彼の手です。それは彼の記憶のなかに存在する─現場には不在の─作品の形状を空中に描き出します。さらにウィリーは、時折「私の名前はハウプトラウムです」「私は私自身の内部に、多数の展覧会を宿らせてきました」といった語句を口にすることで、ハウプトラウムを擬人化し、体現します。彼の主観的な記憶は、空間それ自体の記憶として響きます。実際、今回の展示では広大な会場の四隅にスピーカーが置かれ、そこから聞こえる声を通じて、観客は展示室のどこにいても、ウィリー=ハウプトラウムから語りかけられる格好になっていました。スクリーンは、展示室の最深部に、入口に背を向ける形で設置されていました。
もうひとつの映像作品『セセッションのハイブマインド(ズ)』(Secession’s Hive Mind(s))から聞こえるのも個人のモノローグです。ウィーン分離派会館の理事会は、クリムトたちの時代から現在まで、芸術家と建築家で構成されています。理事たちは、展示作家の選定をはじめとする諸々の議題について民主的に話し合い、最終的に投票で方針を決定します。こうして複数の声が単一の声に集約され、それが広報を介して外部へアナウンスされます。一連の過程に関心を抱いた奥村は、ハウプトラウムの改名について議論するよう理事会に依頼しました(同館には他にふたつ展示室があり、字義的に「メインスペース」を意味するハウプトラウムは、不要な上下関係を示唆する名称として以前から問題視されていた)。次いで、ドイツ語で為されたこの議論の書き起こしを同館の広報担当者ラモナ・ハインライン(通称モナ / Ramona ‘Mona’ Heinlein)に渡し、それを目で読みながら、声を出して英訳するよう依頼しました。彼女の発話を通じて、複数人の議論が一個人の自問自答に置き換わります。それは多重人格あるいは集合意識を想起させます。集合意識を意味するSF用語「ハイブマインド」は、蜂の巣(ハイブ)が全体で単一の意識を持つという仮説に由来しますが、本作の画面にも無数のミツバチ─分離派会館の屋上では数年前から本格的な養蜂が為されている─が映し出されます。
3つめのプロジェクトである『ビッグ・ホワイト・エンプティ・プレイグラウンド』(Big White Empty Playground)の参加者もセセッションの現役職員で、ハウプトラウムにおいて清掃・監視・設営・教育を担う19名の有志です。奥村は、展覧会が開く直前の設営期間中に、彼ら彼女らを対象に集中ワークショップを実施、主にコンセプチュアル・アートの手法や制度批判の戦略を参照しつつ、どのような結果になるのか予測不可能な、偶然に開かれた簡潔な行為を直感的に着想し、その手順をインストラクションにまとめ、それに厳密に従いながら自分自身で工程を遂行、そこから出力された事物や状況をそのまま作品として提示するという制作方法を、ひとりひとりに実践してもらいました。いくつかの課題を通じて各参加者は、ハウプトラウムの内側や周辺(とりわけ地下の工房)で見つかる既存の物品しか道具や素材として使ってはならないという制限のもと、普段の勤務中に気付いたことや気になっていたことを起点に、空っぽの空間に介入する行為の手順を着想、みずから現場で実行しました。生成された事物や状況はそのまま作品として残され、ハウプトラウムの全体に亘って展開する(個展内)グループ展「ビッグ・ホワイト・プレイグランド(Big White Playground)」を構成しました。
本書は、各プロジェクトをめぐる3つのチャプター、空っぽのハウプトラウムを1986年と2025年に撮影した2枚の写真が折りたたまれた見開き、インタビューと論考で構成されています。3つのチャプターでは、依頼のメールや勧誘の手紙、参加者のポートレートや作品図版、書き起こされたモノローグやワークショップ参加者への課題文、そして重要なことに、特異なドローイングを通じて、各プロジェクトが紐解かれます。奥村は、ウィリーに彼が映像内で述懐した11の展覧会の展示風景を、モナにセセッション内の3つの展示空間の位置関係を、そして鑑賞者に「ビッグ・ホワイト・プレイグランド」を構成した19人の参加作家の作品を、それぞれの主観的な記憶だけに基づいて(写真など客観的な資料を参照せずに)即興で描くよう指示を出しています。ウィリーとモナが描いた絵はそのまま掲載され、鑑賞者が描くであろう絵のために19人の名前が印された空白のページが用意されています。
これらのドローイングを司るのは、遠い記憶から浮かぶ不確かな像、素早く線を引く際に現れる手癖など、意思では制御しきれない身体の働きです。そこには、本人も知らなかった各自のパーソナリティとバイオグラフィの様相が現れ刻まれています。このことは本展を貫く原則と通底します。3つのプロジェクトはどれも、ハウプトラウムに備わる所与の条件や文脈への個別の応答を通じて、各参加者に備わる所与のパーソナリティやバイオグラフィを露呈させ、更新させる試みでもあります。奥村本人が言うように、ハウプトラウム自体が、みずからのパーソナリティとバイオグラフィを露呈させ、更新させるために、近しい関係にある人々を使役したのかもしれません。そのとき個々の参加者は、ハウプトラウムに声と手を差し出す親密な代行者/翻訳者として、みずからの身体に備わる所与の「条件」と「文脈」を空間に貸し与えています。
本書に収録された奥村のインタビューは、「ローレンツ(Laurenz)」という人名が付けられたスペースをウィーンで運営する、アーロン・アマー・バームラ(Aaron Amar Bhamra)とモニカ・ゲオルギルバ(Monika Georgieva)によるもの。「翻訳」をキーワードに今回のプロジェクトについて様々な角度から意見が交換されています。論考はニュージーランドのキュレーター、ジェームス・ガット(James Gatt)によるもの。「アッサンブラージュ」という概念を拡張することで、奥村による「インストラクションのインストラクション」という独自の手法を美術史上に位置づけます。
ウィーン分離派会館の展覧会に関する刊行物では、表紙に「SECESSION」(近年は「secession」)と印字されることが慣例である。しかし本書において、それは印刷機ではなくステンシルを介した奥村本人の手作業によって、しかもハウプトラウムの壁に塗られているのと同じ白い塗料を使って─ホワイトキューブを成立させる純白性もまた特定の物質の現れに他ならないことを示すように─印されています。奥村の筆さばき、塗料の振る舞い、少しずつ狭まるステンシルの開口部と複数の因子が相関することで、1冊ごとに異なる仕上がりとなっています。
ページ: 120
サイズ: 210 × 296 mm
フォーマット:ソフトカバー
刊行年: 2025
言語: 英語、ドイツ語
出版: Walther König